「断片的なもの」たち
ここ数日、本当に偶然なのだが、世の中の断片的なものに思いを馳せるものに繰り返し出会った。
列挙すると
岸政彦著「断片的なものの社会学」を読んだこと
つなぎ美術館で開催中の「熊本から宮城へ 水曜日の消息展」を見に行ったこと
「断片的なものの社会学」は社会学者の岸政彦氏が様々な人にインタビュー調査を行なった過程で論文等に取り上げられなかったような小さなエピソードやそこから著者が考えたことを書き綴ったエッセイである。
どこにも掲載できないような、それ自体が意味を持つのかも分からないような出来事だが、それこそがもっとも大事ではないかと語られる。
「島は、山。」では、写真家の石川直樹が鹿児島や沖縄の島々での行われる祭祀の様子を記録した写真が作家の言葉とともに展示されていた。
島は良くも悪くも周囲と隔絶されており(もちろん島同士の交流は盛んで、海路が陸路よりも重要な場所だが)、土地の文化や風習が色濃く残っている。都会では考えられないような文化が今も息づいているのである。
このような島々を「離島」と呼ぶが、それは中央から見た視点でしかない。島で生まれ育ち、よその世界を知らないおじいさんやおばあさんは驚くほど世界のことを知っている。世界は、世界の本質はこれらの島々につながっているのだ。
赤崎水曜日郵便局と鮫ヶ浦水曜日郵便局をご存知だろうか。
水曜日の物語が綴られた手紙を無作為に交換し、再び誰かの元に届けるというアートプロジェクトだ。
手紙を書いているのは市井の人々。人生の転機や悩み、日常のささやかな出来事が綴られている。手紙は時間を閉じ込める装置であることをつくづく感じさせられた。手書きの手紙を読んでいくと、確かにそこに生きる人の姿が立ち現れてくるのだ。取り立てて記録に残すような出来事ではないかもしれない。だからこそ、真に迫るものがある。
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私は昔から「大きな物語に回収されない、ほっといたらこぼれ落ちて忘れ去られてしまう小さな物語」にどうしようもなく惹かれる。できれば取りこぼしたくないと思う。
人は、人生やその過程で起こる出来事に何らかの意味を見出さないと不安になる。何をかを成し遂げなければ生きる意味がないのでは、と躍起になる。
しかし、この広い宇宙の悠久の時間の中で意味を求めてはいけないのかもしれない。
意味がある、という言い方は適当ではない。意味は成されるのだ。
意味を担保するのは人の存在だ。人が今、生きているという事実そのものだ。人が生きていること、それだけでこれほど劇的なのだ。これが希望でなくて何というのだろう。