「極限芸術〜死刑囚は描く〜」展
渋谷で開催されていた展覧会に行ってきました。
こんなにもやもやした気持ちを抱えながら見た展覧会も珍しい。
死刑囚の描いた作品はしばしばアール・ブリュット=生の芸術の文脈で語られる。
この展覧会では「極限芸術」と名を冠しているが、極限状態に置かれた人の感情の発露としての表現ということだろう。
「死刑囚は四畳弱の独居房で、24時間監視され、起床、食事、就寝まですべてが管理されている。運動は週2~3回30分、入浴は週2~3回15分程度。独居房では座っていることが義務づけられ、受刑者と違って刑務作業もない。死刑囚同士を含め、他人との会話は禁止され、面会できる相手も限られている。死刑執行がいつになるかは事前に本人に告げられることはなく、ある朝突然言い渡されると、その約1時間後には死刑執行される。“その朝”の到来を待つだけの日々、そんな極限的な状態に置かれたところから今回展示されているような作品が生まれているのである。」
(「知的好奇心の扉 TOCANA」〈http://tocana.jp/2017/08/post_14269_entry_4.html〉)
なるほど展示されている作品はどれも生々しい。
想像を絶する極限状態において、表現することが生きることに直結している。画材などが限られた条件のもとで制作されているとはとても思えないほど多様な表現が見られる。
良い絵を描こうとか、美術とは何かとか、そういうことを超えたところにこの人たちはいる。
でもねぇ・・・この人たちって死刑囚なんだよね、って気持ちが頭から離れない。
あなたたちが生にすがりついて生きる姿は尊いかもしれないけど、その前にどれだけの人の命を奪ったの?って考えてしまう。
「再審を!」と声高に書きなぐっている作品もあって、冤罪の人もいるかもしれないけど・・・。
もちろん、死刑制度自体の是非も問うべきで、罪を犯した人とはいえ更生の道を1mmも与えずに極限状態に何年もいさせ続けることは果たして国家の制度として成立させて良いのか?とか。
ただ、私が絵を見る上では、誰が描いたか、みたいなラベルを貼って分類することは芸術を語る上で無意味かもしれない(というのがアール・ブリュットの基本的な考え方である)。何を描いたか、見た人が何を感じるかが最上位に来るべきだとも思う。
などなど、語るべきレイヤーが多いすぎてどこに立って良いかもわからなくなる。
吐きそうなほど混乱した頭で、販売されていたいくつかの書籍に目を通しているとこんな言葉に出会った。
「死刑囚の作品は死刑制度自体の自画像」
美術評論家の椹木野衣さんの言葉である(記憶が曖昧なところもあるがだいたいこんな内容だった)。
私が死刑囚の絵を見てもやもやしたことそのものが、死刑制度への向き合い方と重なればそれで良いのかもしれない。