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横浜トリエンナーレ感想

「接続性」と「孤立」というのが横浜トリエンナーレ2017に通底するテーマである。

今までのヨコトリは毎回アーティスティックディレクターを選出していたため、その個性が強く感じられたが、今回は複数名のディレクターや構想メンバーなどが関わりテーマやアーティストを考えるという新しい試みで実施された。

そのためだろうか、世界の同時代的な課題に向き合ったテーマと作品が選ばれているように思う。

以下、個人的に印象に残った作品を抜粋して紹介していく。

メイン会場となる横浜美術館の入り口を飾るのはアイ・ウェイウェイの作品である。壁一面のボートと柱にくくりつけられた救命胴衣は難民によって実際に使われたもの。エンジンも付いていないようなゴムボートにたくさんの人が乗って海を渡った、という事実を報道などを通して知ってはいるが、実際に対峙すると身がすくむ思いがする。常に社会状況と向き合いながら制作を続けるアイ・ウェイウェイらしいメッセージ性の強い作品だが、「ただ並べただけ」という印象が拭えないのがいささか残念だった。

ケイティ・パターソンの「すべての死んだ星」は天球図に白い斑点が施してある、一見すると地味で何が描かれているのかよく分からない作品だ。

天球図、で、白い斑点は何かの場所を示している。大陸の場所?赤道付近に斑点が多いけど?あ、海底火山の場所とか?・・・などと鑑賞者は謎解きのように作品を眺めることになる。

そこで、実は白い斑点は過去に観測された超新星爆発のあった箇所だと知ると、今まで地球の表面ばかりを見ていた意識が一気に広い宇宙へと飛ばされる。

小さな平面の作品(1m*2mぐらいだろうか)から時空を超えて宇宙全体に接続する手腕に舌を巻いた。

第2会場の横浜赤レンガ倉庫1号館の初めに展示されていたので瀬尾夏美による作品。戦争を体験した人から聞いた言葉を記録し、一部は絵に起こされている。

方言交じりで書かれた言葉はまるでその人物が目の前にいるかのような生々しさがある。

クリスチャン・ヤンコフスキーの「重量級の歴史」は重量挙げのポーランド代表選手が歴史的人物の彫像を持ち上げようとする映像作品。

ムッキムキの男たちが彫像を取り囲み、必死の形相で持ち上げようとする。物によっては簡単に持ち上がったり、全く歯が立たなかったりするのだが、いずれにしてもスポーツ中継さながらのハイテンションで伝えるリポーターの存在により終始笑いがこみ上げる。

持ち上がると「この歴史を動かせたことを誇りに思う」といったり、持ち上がらないと「やはりこの人はすごい人だ」といったり、感想を述べるのもシュールだ。

一見おふざけのようにも見えるが、笑って見ているうちに歴史との接続や彫像との向き合い方などを軽やかに捉え直して、ハッとさせられる。

Don’t Follow the Windは東京電力福島第一原子力発電所の帰還困難区域内に作品を展示するプロジェクトであり、「見にいくことができない展覧会」とされている。そのサテライト展示としてHMDを付けて帰還困難区域内の映像を360度全方位見渡すことができる。

発案者であるChim↑Pomはいつも社会の状況に素早く反応し、私たちの固定観念や社会の息苦しい状況を揺るがす。

いつこの展覧会を見にいくことができるのだろうか。

第3会場横浜市開港記念会館には柳幸典の「God-Zilla Project」のみが展示されている。普段は使われていない地下室全体を使った大規模なインスタレーションである。

展示会場に入ると細く長く続く通路が見える。そこに進もうとすると会場スタッフの方から「左手にお進みください」と言われ、今まで通路だと思って見ていたものが斜めに取り付けられた鏡にすぎないことに気づく。直角に曲がるごとに姿見の鏡が45度に設置されており、一直線の通路に見える仕組みだ。そして鏡には広島・長崎に落とされた原爆の時間と場所や、戦後アメリカ・イギリス・フランスによってなされた原水爆実験の時間と場所が書かれている。

この地下室に横たわるのは巨大なゴジラだ。ゴジラの大きな目にはその原水爆実験でできたキノコ雲が延々と写っている。ゴジラと言えば2016年に大ヒットしたシン・ゴジラが記憶に新しいが、1954年に公開された初期のゴジラはビキニ環礁の原水爆実験に着想を得て作られたものである。もちろん全くのフィクションだが、この地下室にゴジラが眠っているように、人類が生み出した核の落とし子として、ゴジラは今も太平洋の奥底にいるのかもしれない、と大真面目に考えても良いのではないか。

また次の部屋では日本国憲法第9条の条文が電光掲示板に写されている。ブツ切れの文章、雑然と積まれた電光掲示板を見ていると、憲法が特に9条が絶対的なものでなくなることを感じずにはいられない。自民党が大勝を納めた衆議院議員選挙の翌日にこの作品を見たことも無関係ではないだろうが。

関連プログラムが開催されているBankARTは創造都市横浜と語る上で欠かせない拠点だが、今年度いっぱいでの閉鎖が決定している。きっとこれが見納めになるだろうと思いつつ足を運んだ。

ヨコトリ関連企画の展示よりも、同時期に開催されていた「日産アートアワード2017」の展示が面白かったのでそちらの感想を書きたい。

なんといっても大勝を受賞した藤井光の「日本人を演じる」が素晴らしかった。

これは集められた12名ほどをまず「日本人っぽくない顔」から「日本人らしい顔」という基準で男女各一列に並べる。「この人は彫りが深いからあんまり日本人っぽくないね」なんてことを言いながら並べた後は、その列から「日本人っぽくない側」の半数を残し、「日本人らしい顔」の人たちが眺める。

これは万国博覧会で実際に行われた「人類館」というものの展示になぞらえたワークショップだ。人類館では琉球やアイヌといった民族の人を展示室で生活させて、その民俗そのものを展示対象としたのだ。

当然反発があったが、中には「私たちの民族をあの野蛮な人たちと一緒にするなんて屈辱的だ」といった訴えもあったようだ。

ワークショップ参加者はその史実と向き合いながら、自分たちのしたことと重ね合わせる。

興味深かったシーンは一番「日本人っぽくない顔」と言われた女性の反論である。彼女は目鼻立ちがはっきりとした濃い顔で、どこかの国とのハーフだと言われれば納得してしまいそうな顔立ちの方だ。「私の鹿児島の出身で、この顔はいわゆる”縄文顔”だと思うんです。縄文人はずっと昔から日本に住んでいて、後から弥生人がやってきたわけなので、私の顔の方が日本人らしい顔のはず」といったことを主張していた。もう、この時点で私たちの思う国民や国家の概念を揺さぶられてしまった。

もう一つの関連プログラムは黄金町で開催されていた「黄金町バザール2017 他者と出会うための複数の方法」だ。

元違法風俗店の店舗だった場所をギャラリーやアトリエとしており、展示会場が点在しているわけだが、そういった閉じた空間での展示を超えて、黄金町という地域そのものや地域住民との関係性を深く掘り下げる複数のプログラムが展開されていた。

いまや「アートによるまちづくり」を掲げる町は日本中にたくさんあるわけだが、地域の人がどうアートと向き合うか、というのはどこでも直面する課題である。それは必ずしもアートワールドでの評価と一致しないからであろう。

かつては青線地帯と呼ばれ、一斉摘発の後にゴーストタウン化した黄金町は、ジェントリフィケーションが起こった場所とも言える。自分なりの方法でアートと関わる住民の姿はそんな課題に光を灯すようだった。

横浜美術館の展示の最後に「ヨコハマラウンジ」と題して、構想メンバーの言葉や会期中に開かれたシンポジウムの記録映像などが展示されており、思索を深める手助けとなる。

その中で養老孟司の言葉が至言だったので引用する。

ーーー

なんだ、これは。

これは「なになにです」。そういうと、現代人は安心する。「なんだ、これは」のままではいられない。

でも世界は本当は「なんだ、これは」なんですね。それは子どもの世界でもあります。なにしろだれであれ、白紙で生まれてくるんですから。

できれば正体不明のまま、ただ見てください。ひょっとすると、これはモダンアートの作品じゃないのか。どう見ても、そうですよねえ。私もそう思います。それでいいじゃないですか。

わけがわからない。それって大切なことなんですね。人生がそうですからね。

なんで生まれてきて、なんで死ななきゃならないのだ。思えば、自分の人生って、正体不明じゃないですか。みんなで寄ってたかって、「意味がある」フリをしてませんか。

突然のようですが、神様の目線からすれば、人生は作品、アートかもしれませんね。意味はよくわかんないけど、それなりに興味深い、美しい。そういう人生を生きたい、創造したい。そう思いませんか。

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