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地理と身体と解像度に関する雑文

いつもの記事とは少しテイストを変えて、最近もやもやと考えていることを文章にしてみようと思う。

先日、人生で初めて東北を訪れた。目的地は山形県鶴岡市。庄内空港に降り立った私を待っていたのは、広い大地と360度囲む山々と青い空だった。

見渡す限りの大地、ほとんどが田んぼ。そうか、ここが庄内平野か。

思えば私は昔から地理の授業が苦手だった。白い日本地図あるいは世界地図を相手に「ここは〇〇平野、〇〇山脈、〇〇の生産量が日本一」などど暗記していくことが耐え難かったのだ。「庄内平野」そんな単語も覚えた、いや頭に詰め込んだ気がする。

それが今回実際に足を運んだことで、とても自然に「庄内平野」が私の中にインストールされたのだ。無論、たった2日滞在しただけで何が分かるというのだ、と言われるかもしれないが、身体性を伴う前と後ではこんなにも認識が違う。

例えば、宮崎から山形への訪問はきっと気温差が激しいだろう。上着を持って行った方が良いかもしれない、などといった心配は杞憂に終わった。山形も暑かったのである。なぜなら盆地だから。白地図を見ても盆地ということは分からないし(もちろん等高線の入った地図を見れば分かるのだが)、周りの山々が雪を被っていることは分からない。

身体性を伴う、というのは私の人や物や土地に向き合う時の作法なのだろう。「だって行ったことない場所のことなんて分からんし!」と苦手な地理に向き合うのは避けていた私は、幼心に白地図相手に分かった気になることに抵抗を覚えていたのかもしれない。

そして自分の足で歩くとその土地の解像度が上がっていく。白地図だったところに道路や建物、人の姿が描かれていくのだ。最初は大通りから、だんだんと小さな路地や美味しいお店を知り、さらに土地の歴史を知ることで時間軸も獲得していく。

これから私が関わる人や土地や作品に対しても、身体性を伴った関わり方をしていくことだろう。というか、私はそれしかできないのだ。


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