「メディアアートの輪廻転生」感想
YCAM(山口情報芸術センター)で開催中の「メディアアートの輪廻転生」展を観に行った。
YCAMは数ある文化施設の中でも、特別な存在だ。まずもってどんな施設なのか説明が難しい。美術館?劇場?どちらも違う。メディアアートに特化した施設とも言われるが、微妙にずれている。「研究開発を行う文化施設」という説明を受けたことがあるが、ますます意味が分からなくなる。
具体的な活動内容はHPやパンフレットに詳しいので、ここで部外者の私がとやかく言っても仕方ないだろう。ちなみにHPやパンフレットの充実ぶりは半端ではないので必見である。
意味の分からなさを抱え続けることができること、それこそがYCAMのYCAMたらしめている特徴とだけ言っておこう。
個人的には学生時代に二週間の教育普及インターンシップに参加したことでYCAMと縁が生まれた。短い時間だったが、自分の頭の中にあった枠組み、今まで頑張って培ってきた価値観、といったものをやすやすとぶっ壊される得難い体験をした。
定期的に訪れて初心を思い出させてくれる場所、あるいは自分の型をぶっ壊してくれる場所が私にとってのYCAMである。
さて、今回の展示のテーマは「メディアアートの死」である。
機器の故障やOSのアップデートなどに伴い、制作当初の状態を維持できなくなった作品とどう向き合うかを模索するものである。
作品のコレクターや美術館という立場からオリジナルを維持する方法はいくつか存在する。「故障しても良いように同種の機器を持っておく」「再解釈や再制作」「別の機器やOSで代用すること」などだ。しかし、今回の展示ではアーティストの立場から「死」に向き合ったものだった。
そもそもアーティストの多くはオリジナルを維持することに執着が少ない。存命中はむしろ手を加えてアップデートしていけば良いと考えることが多いようだ。そこで、メディアアーティストにアンケートを実施し、各作家の言葉を展示していた。
オープニング翌日のシンポジウムでは、複数のメディアアーティストを招いてのシンポジウムがあった。ずらりと並んだ作家を見て一番に思ったのは「みんな若い」ということだった。
一般に美術の世界で大御所の作家というとほとんどが死んだ作家の名前が挙がるだろう。存命の作家だと戦争を経験している世代になるだろうか。メディアアーティストの先駆者、大御所と思える人を集めても、最年長で60歳代。それだけ若いジャンルなのだ、と思い知らされた。
シンポジウムは「作品が死ぬとはどういうことか?」という話から「そもそもメディアアートってなんだ?」という話に集約していった。メディアアートのことが分からないのに、その死を定義することは不可能だ。
「死」を考えると「生」を考えざるを得なくなる。
これはメディアアートに限らず、多くの物事に共通することだと気付かされた。
その話を聞きながら、以前聞いたロボットやAIに関するシンポジウムのことを思い出していた。
人型ロボットや人工知能について考えれば考えるほど、「そもそも人間はどうやって体を動かしているのか?」「どのように思考しているのか?」「どのように喋っているのか?」という問いと向き合うことになるそうだ。
それにしても、YCAMでは簡単に正解なんて教えてくれない。
例えば美術館の展覧会というものは、「正解」とは言わずとも一つの解釈や成果を提示するのが常である。それに見慣れてしまっているから、YCAMの展示は「一緒に考えましょうね!」と大きな声で言われているようでちょっと拍子抜けしてしまう。
いや、そうだった。分からなさを抱え続けさせてくれるのがYCAMだった。