瀬戸内国際芸術祭2016春会期の感想
春会期の感想をまとめられるほどたくさんの島に行ったり、作品を見たりしたわけじゃないです。
また、こえび隊とかで密に関わったわけでもないし、地元の人や作品を見に来た人とじっくり話をしたわけでもないです。
だから、私の狭い見聞と、主義主張に基づいて感想を書くので、あくまでも一意見として読んでください。
ある港の待合室で聞こえた地元のおじいさん・おばあさんグループの会話です。
「芸術祭だから見に行ってみたけど、これが芸術なんかって全然分からなかった」
「絵とかあったらまだ分かるけどな」
「昨日なんかヘリコプターがバリバリバリバリってうるさかった」(たぶん取材とか、偉い人を運ぶためのものと思われる)
「自転車(レンタサイクル)がいっぱいおって危ない」
このような地域で現代アートが展開されるのってある種暴力的なことだよなー。と改めて思いました。
後半の2つの言葉は観光地ではどこでもある課題なんでしょうけど。
つまり完全に観光地になっている。
前半の2つはなんだかやりきれない。
そりゃあ全ての人にとって良いものを作るのは難しいけど、こういう芸術祭をする以上は地元の人たちにとってその存在が誇りになっていかなければ、ただのイベント・観光地化しているだけじゃないのか。
これは坂手で見かけた空き家の写真です。
このお家の由来は存じ上げませんが、もう手もつけられないような状況だと思います。
こういう場所でアートプロジェクトを展開することで空き家を再生したり、いっぱい人が来て賑わったり、全然その土地のことを知らなかった人が少しでもその地域に愛着を持ったりすることはとても良いことだと思います。
でも、こんな空き家を見てしまうと、アートは無力なんじゃないかとか、もっと別にやるべきことがあるんじゃないかという気持ちになります。
見てきた作品の中には、「この作品ってここ(この島)で展示する意味ある?」と首をかしげてしまう作品もありました。
その土地のもの(植物とか、土とか)を使っていたり、地域の人と一緒に共同制作していたりするけど、そういうことではなくて、なんか、もうちょっと精神的に地域に寄り添った作品が見たかったな。
地域の人にとって誇りとか、アイデンティティになるような。
ヨソからやってきた人たちに笑顔で自慢したくなるような。
だから作品の印象ってあんまり残っていなくて、海がきれいだったっていうことだけがすごく残っています。
たぶん芸術祭がなかったらいくら景色がきれいでもこんな田舎の島まで足を運ぶことは一生無かったと思います。
だから、もちろん芸術祭を開催する意味は絶対にあるわけです。
でも、それってどうなの?芸術祭である意味あるの?っていう疑問がぬぐえません。
芸術祭のパスポートには各作品のキャプションに附属しているスタンプを押していく仕組みになっています。
でも、鑑賞者のなかには、完全にただのスタンプラリーになっている人も多かったんじゃないかな。
じっくり作品に向き合うとか、考えるっていう営みをするのは難しかった気がする。
ものすごく人が多いし、移動はフェリーが基本だから結構ちゃんと計画を立てて時間通りに行動しないといけなくて、心配性の私は気持ちがそわそわしてしまったということもあると思います。
ここ数日、九州で大きな地震が起こったこともあり、いろいろ考えてしまいます。
いま必要なのは、水とか、食糧とか、生理用品とかなわけだけど、じゃあここで芸術に携わるものには何ができるんだろう。
こういうときだからこそ、芸術は必ず必要で、人を救いもするし、これから立ち上がっていくものだと信じたい。
私にできることがあればなんだってしたい。
けど一方で、芸術祭の作品は救ったり、立ち上がったりするのだろうか。とか考えてしまう。
かなりネガティブな感想を書いてちょっと申し訳ない気持ちになってきました。
瀬戸内国際芸術祭は現在日本中で展開されている地域型アートプロジェクトの成功例として取り上げられることが多いけど、本当に成功しているのかって見れば見るほど考えてしまうのです。
でも、心が震えたり、きゅんとしたり、涙が流れたりしたときもありました。
特に沙弥島で見たスナッフ・パペッツの公演のあとに、一緒に演じた地域の子どもたちとスナッフ・パペッツのメンバーの晴れやかな笑顔を私は忘れません。
夏会期・秋会期はもっと丁寧に芸術祭の様子を見ていきたいです。
冒頭にも述べたように、完全に私見で書いています。だから、この記事をご覧になった方はネガティブな視点をそのまま受け入れて評価するのではなく、是非ご自分の目で見に行って、考えてほしいなと思います。
いろいろ書いたけど、見に行く価値は絶対にある芸術祭です。