岡山芸術交流
昨今、日本各地でさまざまなアートプロジェクトが展開されていますが、そんな中で異彩を放つアートプロジェクトが岡山で開催中です。
岡山芸術交流、英語表記は「Okayama Art Summit」です。
シンボルマークは目ですが、よく見ると目の部分はカメラのファインダーの形をしています。
岡山駅前の看板には芸術交流の文字はなく、メインテーマである「開発 Development」の文字と出品作家の名前が連なっています。そして最後には「and you...」。鑑賞者である我々も参加者であるということでしょうか。
作品は・・・ピンピンに尖った作品ばかりでした。現代アートは難解、と言われることが多いですが、まさにそんな作品群のオンパレード。
意味、分かんない。
と、首をかしげながらも作品に見入っていたのはきっと私だけではなかったはず。
朝から夕方までかけて見ましたが、観終ったときにはかなりしんどかったです。何がしんどいって一つ一つの作品が刺さる刺さる。
むかし、何を持って作品の良し悪しを判断していいか分からなかったときに、ある人から「どれくらい深く、後々まで刺さるか」というものさしを教えてもらいました。ずっとずっと心の中に、魚の骨が喉に引っかかったかのように残って、疼くような作品は良い作品、というわけです。 そういった意味では、クオリティが高くて、難解で、でもずっと考えさせられるような、ずっとずっと疼くような作品を一日中観ていたら食傷気味になりました。
日本のアートプロジェクトは、大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術に代表されるような地域活性化を謳うもの、あるいはヨコハマトリエンナーレやあいちトリエンナーレのように都市の祝祭を謳うものが主流になっています。そこでは、地域住民の参加や地域性といったことが重視されがちです。
言い方は悪いかもしれないけど、みんなが参加してハッピー、人がいっぱい来て地域が賑わう、大人も子どももアートに触れる、難しい作品もあるけど分かりやすくて接しやすい作品もある・・・などの特性を感じます。
今年の初めに出版され、物議を醸している「地域アート 美学/制度/日本」という本があります。この本では「地域アート」という言葉を「ある地域名を冠した美術イベント」と定義付け、日本各地のアートプロジェクトの展開を批判的に論じています。
それらの先に述べたような特性からは一線を画している岡山芸術交流は、もはや日本の地域アートの文脈で語ることができないのではないか、と思いました。筆者がとくに批判する根拠としていた「批評性」を担保するどころか前面に押し出しており、とくに、岡山にとって一番身近な芸術祭である瀬戸内国際芸術祭とは真逆に舵を切っているのは偶然ではないでしょう。
ある種の現代アートアレルギーを持っている人にとっては、かなりトラウマを植えつけるような作品だったかもしれません。置いてけぼりをくらったような気持ちになった人もいると思います。
でも、「なんだこれは?」という揺さぶり(というか電気ショック)を与えたり、そこから一歩立ち止まって考えさせたりする作品だったともいえます。
そうやってリテラシーの底上げを図ることは民主主義の第一歩でもあります。
「アートは分かる人にだけ分かれば良い」というスタンスではなく、そんな気の遠くなるようなことに正面からぶつかっている企画者の気概が感じられました。