六本木クロッシング2016展 感想
森美術館で7月10日まで開催中の「六本木クロッシング2016展 僕の身体、あなたの声」を鑑賞してきました。
六本木クロッシングとは、森美術館で2004年から3年に1度開催されている展覧会シリーズで、日本のアートシーンを定点観測してきたものです。
いままで図録を見たことはあったけど、実際に足を運ぶのは今回が初めて。
副題に「僕の身体、あなたの声」とありますが、チラシには「『私』とは誰だろう。私の身体はどのように歴史や他者とつながっているのだろう。」という言葉が書かれていました。身体性に迫る、というよりは存在について問うような展覧会だったと思います。
一作目は毛利悠子さんの作品。
複数の人工物が、まるで生きているみたいに動きます。その動きはモーターなどで予め既定というか、調整されている一方で毎回勝手に予測不可能な動きをします。プログラムされた動きと予期しない動きの狭間で、きっと人間がいなくなっても永遠に動き続けるような、人間の不在を強烈に感じさせました。
タイトルは〈From A〉。Aはアルケー、万物の根源を意味しています。
万物の根源というと古代をイメージしますが、なぜか私は人間が不在となった未来を想起してしまいました。
こちらは片山真理さんの作品。彼女は先天的に手と足に障害を持っていて、ずっと義足で生活されています。こちらの写真はセルフポートレートと彼女自身を模したつぎはぎの人形やクッションたちです。この人形は複数展示されていて、彼女の分身が点在しているようです。
ごてごてに物に溢れた部屋、がっつりのお化粧、写真じゃ分かりづらいけど、額縁や足元の紐もかなり装飾的です。このシンプルとは程遠い空間の中は、着飾らざるを得なかった彼女が、自己主張するわけでもなく、かといって何かに身を隠すわけでもない、非常に微妙なバランスで成り立っているように感じます。
また、写真には写っていないけれど、他のセルフポートレートの中には瓶にいろんなものを詰めてその中に油を流し込んで蓋をしたoil worksがたくさんあります。
実は先日このoil worksのWSに参加してきました。
こちらが私が制作したoil workです。
ご本人ともいろいろお話させていただいて、なぜこのようなoil worksを作っているのかと伺いました。たまたまサラダ油がたくさん余っていたので試しに使ってみたら良かった、ということだったのですが、実際に作品を見るとどうもそんなことでは語れないような気がしてきました。
サラダ油を流し込むことで腐らずに半永久的に瓶に閉じ込めることができるということは、成長に合わせて義足を新しくしてきた彼女の憧憬というか、身体への意識の反動があるような気がするのです。
石川竜一さんの作品は、彼が沖縄で出会った人々のポートレートです。
どこで撮ったのか周囲の環境が全く分からないほど、全面に顔。 作家にとっては重要な出会いであった一人一人ですが、私にとっては無表情に見つめられるのが怖くて、まともに作品を見れませんでした。あとからどうして私はまともに見れなかったのかと振り返ると、見ず知らずの他人である一人ひとりの持つ深みに対峙できなかったのだと思います。おそらく私はたまたま彼らと道端ですれ違っても何も感じないでしょう。わざわざその深みに対峙する必要はないから。
キャプションにあった作家の言葉が印象的だったので引用します。
「僕らはいつもどこかですれちがい、記憶の奥に埋もれてしまうほどの小さな残像となっていく」
山城大督さんの作品は、15分ごとに入れ替え制の作品で、部屋に入る前からいろんな声が聞こえてきていたので、映像作品かな?と思いながらはいるとこんな光景が。
これらの人工物がくるくる回って、スピーカーから音楽や台詞が流れて、照明が変化する。
人のいない舞台芸術作品でした。
明確なストーリーがあるわけではないけれど、気持ちの揺らぎや複雑な絡み合いがびしびしと伝わってきます。見終ったらかなり感激したのですが、なぜ人のいない舞台芸術で感動したのだろう。
舞台芸術って生身の人が目の前にいて演じていることで、自分を投影するというか、感情移入するものだと思うのですが、なんだかそんな次元を超えてしまったようです。
さわひらきさんの作品は、日常の断片とアニメーションを合わせた映像といくつかのオブジェ。
どこにでもあるような室内の光景にくるくる回る梯子がかぶさり、日常を揺るがします。
あた、延々続く梯子を登り続ける人の姿は少し怖く、抑圧的なものを感じました。
高山明さんの作品は、どこかの工事現場に立つ4人の人が、自国に伝わる伝説などを語ります。実は彼らは在日外国人の労働者で、立っている場所は2020年の東京オリンピック関連の建設現場です。
彼らが語る「バベルの塔」などの話が、非常に現代的に聞こえます。
そしてこの壁の裏側にはさらに2つの映像作品が展示されていて、1964年の東京オリンピックのときの影の功労者とも呼べる2人の人が当時を語っています。
古い伝説と二つのオリンピックが長いときを越えてつながるような作品です。
野村和弘さんの〈笑う祭壇〉という作品です。床に散らばっているのは無数のボタン。鑑賞者は中ほどにある台座にボタンを乗っけることを目指してボタンを投げるという参加型の作品です。
最初、この作品スペースに入ったときボタンが落ちて、床に散らばっているボタンの上に落ちるパラパラとした音がお賽銭の音かと思いました。鑑賞者はみな真剣なまなざしでボタンを投げ、なかなか台座に乗らなくて(乗せるのは相当難しい)「あーあ。」とばかりに少し笑いながら次のスペースへ進みます。モノを投げるという身体的なアクション自体も面白い。
六本木ヒルズの54階という超都会!な立地でもこのようにして信仰というものは生まれるのかもしれないと感じました。
ミヤギフトシさんの作品は、現代を生きる人間関係に焦点を当てています。
一面的には人のことを語れない。
特に沖縄の米軍兵でドラッグショーを行ったLGBTの方の語りと「クロリスに」という歌を通して、男性とか女性とか、アメリカ人とか日本人とかの境界を越えたところにある関係性について考えさせます。
この作品の軸となっているのが、ギリシャ神話の「アポロとヒュアキントス」。ギリシャ神話を引き合いに出すことで、時間さえも超えた普遍的な問題であることを思わせます。
後藤靖香さんの作品は彼女のおじいさんの戦争体験をもとに書いた作品です。戦時中の不穏な空気や何かを振り絞って生きている少年たちの姿が生き生きと描かれています。
カンヴァスをタッカーで直接壁に打ち付けるという展示の仕方で、厚みがなくて、薄っぺらく、壁からちょっと浮いて見えるカンヴァスが非常にもろいのではと思います。
でもそのもろさに、見ている側の足場もぐらつくような気がしてきます。
藤井光さんの作品は、戦時中の日本の学校教育の様子を紹介した「帝国の教育制度」という映像と、韓国の若者と行ったワークショップの様子の映像が代わる代わる流れるというもの。
ワークショップでは韓国人の若者20人ぐらいが集まり、半分の人が戦時中の映像を見て、残りの半分の人にどんな映像だったかを口頭や実演を交えて教えてあげました。こんな感じで拷問してたとか、人が倒れてたとか・・・。
それが帝国の教育制度のもと、全員一律で叩き込まれる軍隊のような教育現場の姿がクロスしていくことで、すっごい皮肉を感じ、戸惑いました。
戦時中のことが題材ではあるけど、非常に現代的だし、日本と韓国という国を超えて通じるものがあるように思います。それが何かはうまくいえませんが・・・
佐々瞬さんの作品は、一方の映像では主婦の女性たちが着物などの思い入れのある布の話をしています。貧しいときは着物を工夫してつなげた、などのエピソードから人々のつつましやかな暮らしに焦点をあて、アーカイヴすることで認め直しています。
それらの布をつなぎあわせて作ったのが手前にある旗です。もう一方の映像では作家自身が女装してその旗を振ります。旗って集団を鼓舞する象徴のようなもので、時にお上から振ることを強要されることもあるようなものだけど、庶民の小さな物語を紡ぎ合わせたこの旗は上からの圧力ではなく、下から立ち上げる力強さを感じさせます。
志村信裕さんの作品は、見島という山口県にある小さな島で生きる見島牛にまつわる映像作品です。
島の人たちが見島牛について語るのですが、農作業のために土をならしたりするのに牛が活躍したという昔の暮らしのことやその牛に赤ちゃんが生まれたときのエピソードなど、牛とともに生き、慈しんできたことが伺えます。
見島という島は近代化から取り残されて、昔の原風景がそのまま、昭和90年とでもいうような、もしかしたらありえたかもしれない日本の風景を残しているところだそうです。
映像はフィルムで白黒で、いかにも昔の映像!って感じですが、実際に撮影したのは最近とのこと。
平成生まれの私がノスタルジーを感じる作品でした。
百瀬文さんの作品は・・・写真撮るの忘れました。ごめんなさい。
20人の作家それぞれがとてもボリュームのある作品だったので、一つひとつ丁寧に見ていくとだいぶ疲れてしまいます。しっかりご飯を食べてから行くのがオススメ!笑
さて、誰しも実のお父さん・お母さんは一人ずついますが、おじいさん・おばあさんは二人いますよね。私にとってはどちらもおばあさんなんだけど、おばあさん同士は人生の大半を赤の他人として過ごしてきて、ある日突然、強制的に家族になるわけです。
百瀬さんの作品はそんな二人のおばあさんに焦点をあてたもので、彼女のおばあさんが、もう一人のおばあさんに宛てて手紙を書いて、その手紙を受け取ったおばあさんが朗読するというもの。
声と映像がだんだんとずれてきて、一つの手紙から二つの物語(書く側、受け取る側)が重層的に立ちあがってきます。
しかしながら、おばあちゃんはおろかお母さんになるにもあと数年かかりそうな私にとってはリアリティがいまひとつない。
あるいは私のお母さんと、私の未来の旦那さんのお母さんとの関係なんて想像できないなというのが正直なところでした。
ナイル・ケティングさんの作品は、非常に近未来的というか最先端テクノロジーを凝縮したような作品です。
だけど、超自然的。
正直言って、一番言語化が難しかった作品です・・・。
松川朋奈さんの作品はフォトリアリスティックな油絵。描かれている女性は六本木に勤める女性たちで、みなさまざまな事情を抱えて生きています。
見ず知らずの女性たちですが、意味深なタイトルと相まってどこかで共感できるというか、私地震のことだと思えてきます。
パッと見た瞬間、写真かと思うほどリアルな絵なのですが、現実じゃないような倒錯を感じます。やはり写真以上に描かれている女性たちとの関係性や情念が伝わってくるからでしょうか。
西原尚さんの作品は、でっかいベルトコンベアの上をぼてっとした黒い謎の物体が流されていき、落ちて、また上に登っていく・・・この一連の流れを繰り返しています。
だけど必ずしもうまくいかなくて、途中でひっかかってその度に監視員の方が棒で黒い物体を突いて動かしていました。
作家の意図としてはちゃんと動いたほうが良いんでしょうが、その不完全さが人間臭くて良いなと思いました。
小林エリカさんの作品は、写真は撮ったもののタイミングが悪く真っ暗だったので掲載できませんでした・・・。
広島の原爆や、アメリカでの原水爆実験にまつわる作品です。
時間ごとに変化するタイプの作品ではあるものの、8分程ほとんど目に見える変化がなく、作品が全体像を結ぶのはほんの一瞬だけ。それが原爆のピカッっていう一瞬の光線と重なります。
ジュン・ヤンさんの作品も広島の原爆をテーマにしたものです。
広島に住む日本人の男性と留学に来たアメリカ人の女性の複雑な関係を丁寧に描いているなかで、安倍総理の演説が非常に薄っぺらに聞こえてしまう。
また右手に見える行き止まりの階段も意味深です。だいたい、階段っていうのは高低差を持ったある場所から別の場所へ行くために存在するものですよね。その階段の先が行き止まりってどういうことだろうか。
あるいは全体を俯瞰する展望台の役割ならば、美術館の展示室で高い位置から何を見下ろせばいいんだろうか。
ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・マエダさんの作品は西山輝夫という方が撮影したスクラップをリプリントしたものです。
・・・写真自体は非常に興味深いのですが、なぜこれが美術作品になるのかということの方が私を悩ませました。
目撃すること、記録すること、公開すること・・・。その営みとアートの関係とはなんだろうか。
百瀬文さんの作品について、「誰しも実のお父さん・お母さんは一人ずついます」と書きました。さまざまな事情で、実の両親と一緒に暮らせないということはあっても、血のつながった親はお父さんとお母さん。
・・・という「常識」が変わる可能性があるそうです。
同性婚の夫婦から、一方の卵子を子どもが生まれるとしたら・・・?
iPS細胞の研究がすすめば、このようなことが決して夢物語ではなくなってきたそうです(専門的な話については明るくないのでここでは詳述しません)。
長谷川愛さんの作品は、同性婚カップルのそれぞれの唾液を採取し、その遺伝子情報から二人から生まれてくる子どもの顔や体格などをCGで表現しています。
技術的には可能、だけど倫理的には・・・?
という決定をどこかに委ねるのではなく、既存の価値観をゆさぶり、議論を起こしていくことがこの作品の目的だと思います。
個人的には、「自然の摂理に反することはやらないほうが良い」という立場です。
人間はそこまで偉くない。欲望のために自然を操作するのはおこがましいし、おろかだろ思います(飛躍しますが、原発の問題なんかはまさに人間がその欲望のために合理主義を追及した結果だと思います)。
だから逆にいえば、LGBTの人たちが結婚したい、と思うのは自然の摂理なので同性婚については賛成です。
とはいえ、私には想像もできないような事情を抱えた人もいるはず。だからこそ議論していく必要があるのでしょう。
またこの作品に関するシンポジウムが森美術館で開催されたので、こちらもご参照ください。
以上、20名の作家とその作品のレポでした~。